父母と指導者へ 性善説と性悪説を超えるスポーツメンタルの哲学

目次

はじめに

スポーツの現場に立つと、私たちはしばしば「子どもをどう導くべきか」と悩みます。
素直に取り組む子もいれば、反発する子もいる。努力する選手もいれば、怠けるように見える選手もいる。そんなとき、多くの指導者や保護者は「この子は善なのか、悪なのか」と心の中で問いかけます。

古来より議論されてきた「性善説」と「性悪説」。孟子は人は本来善であると説き、荀子は人は本来欲望的であると説きました。これは単なる古代の思想ではなく、現代の私たちの心の中でも繰り返される問いなのです。

「信じて任せるべきか」
「厳しく管理すべきか」

しかし、この二項対立にとらわれ続ける限り、指導者や保護者の心は揺れ動き続けます。

大切なのは「相手が善か悪かを決めること」ではありません。
私たちが問うべきは、ただひとつ。

「自分の役割を全うしているか」

子どもをコントロールしようとする瞬間、すでにその問いから外れてしまっています。善悪の判断や結果の強制ではなく、自分の立場でできることを誠実に積み重ねること。それこそが、性善説と性悪説を超えた“第三の道”なのです。

第1章 相手を変えようとする誘惑

私たちは指導者や親として、どうしても子どもや選手に「こうあってほしい」と願います。
努力してほしい、素直であってほしい、勝利を目指してほしい。
その願い自体は自然なものですが、気づけば「相手をコントロールしようとする欲望」へと変質していきます。

「もっと真剣に取り組め」
「どうして言う通りにしないんだ」
「そのままではダメになる」

こうした言葉は一見、愛情や責任感から出ているように見えます。
しかし、その根底には「相手はまだ未完成だから、自分が正しい方向に導かねばならない」という思い込みがあります。
この思い込みこそが、指導の場を重くし、親子関係を苦しくさせるのです。

ここで思い出すべきは、性善説と性悪説の対立です。
「子どもは本来善である」と信じれば、期待を押し付けすぎる危険がある。
「子どもは本来悪である」と決めれば、管理と制御に偏ってしまう危険がある。
どちらを選んでも、私たちは結局「相手を変えようとする」立場から逃れられません。

だからこそ、必要なのは発想の転換です。
相手をどう評価するかではなく、自分がどのように役割を果たすかへと視点を移すこと。
相手を変えるのではなく、自分の在り方を磨くこと。
これが「相手をコントロールする誘惑」から解放される第一歩なのです。

第2章 役割を全うするということ

役割を全うするとは、結果を支配することではありません。
選手や子どもが成功するか失敗するかは、誰にも完全にはコントロールできないものです。にもかかわらず、指導者や保護者は「勝たせたい」「伸ばしたい」という思いのあまり、つい結果に手を伸ばしてしまう。ここに苦しみの根源があります。

役割を全うするとは、あくまで 自分に委ねられた範囲の責任を誠実に果たすこと です。

  • 指導者であれば、環境を整え、技術や知恵を伝えること。
  • 親であれば、安心できる土台をつくり、心から応援すること。

その先にある「やる気になるか」「成果を出すか」は、選手自身の旅路であり、こちらの役割ではありません。

哲学者ハイデガーは「人は存在そのものを生きるしかない」と語りました。指導や教育も同じで、私たちは自分の「存在の仕方」しか差し出せない。つまり、他者を変えることはできないが、他者に触れる自分の在り方を磨くことはできる。これこそが役割を全うするということです。

善か悪か、成功か失敗か、期待か失望か。
そうした二元論から自由になり、ただ自分の責務を果たす。
この姿勢は、一見冷たく感じられるかもしれません。けれども実際には、子どもや選手にとって最も安心できる土壌をつくるものです。

なぜなら、相手に過度な期待を押し付けず、否定的な評価を突きつけることもせず、ただ「そこにいて、役割を果たしてくれる大人」の存在は、彼らに計り知れない安定感を与えるからです。

第3章 コントロールしないことの力

スポーツの現場では、選手に「もっと頑張れ」「こうすればいい」と言いたくなる瞬間が必ずあります。親としても、子どもが失敗しそうに見えれば「その道は危ない」と止めたくなるでしょう。こうした衝動は自然なことです。しかし、その多くは「相手を自分の思う通りに動かしたい」という無意識の欲望から生まれています。

けれども、人は本来、他者を完全にコントロールすることはできません。むしろ強くコントロールしようとすればするほど、相手は反発し、心を閉ざしていきます。スポーツ心理学の研究でも「外からの過剰なコントロールは、内発的動機を奪う」ことが繰り返し示されています。

では、相手を放任すればいいのかといえば、それも違います。放任は無関心であり、支える役割の放棄につながるからです。大切なのは、相手を操作しないが、環境を整え、自分の役割を全うすること。

例えば、

  • 指導者なら「結果を出せ」と迫るのではなく、選手が集中できる練習環境を用意する。
  • 保護者なら「もっと努力しろ」と叱咤するのではなく、挑戦と失敗を安心して受け入れられる家庭をつくる。

こうした在り方は、表面的には「何もしていない」ように見えるかもしれません。けれども実際には、相手が自らの力で成長するための最も強力な支援になっているのです。

「コントロールしない」という態度は、単なる消極性ではありません。
それはむしろ、相手を信じ、成長を委ね、自分の責務に集中するという積極的な選択です。
そしてその選択こそが、選手や子どもに本当の自由を与え、彼ら自身の可能性を引き出す力となるのです。

第4章 役割を全うする者が残すもの

役割を全うする大人は、子どもや選手にとって「静かな灯火」のような存在になります。
大きな声で導くのでもなく、強制力で縛るのでもなく、ただそこに在り続ける。
その在り方は、短期的には目立たないかもしれません。けれども時間が経つほどに、その影響力の大きさが浮かび上がってきます。

なぜなら、選手や子どもが人生の困難に直面したとき、思い出すのは「言葉」よりも「姿勢」だからです。
「自分を無理に変えようとせず、ただ見守ってくれた人」
「失敗してもなお信じ続けてくれた人」
その存在は、言葉以上に深く心に刻まれ、彼らの自己信頼の根拠となります。

これはスポーツの勝敗を超えた、人生における大きな遺産です。
役割を全うするとは、目の前の結果を操作することではなく、未来に残る安心の基盤を築くこと。
他者をコントロールしないという哲学的な態度が、最終的には子どもや選手を最も強く、最も自由にするのです。

指導者や親が「相手をどう変えるか」ではなく「自分の役割をどう果たすか」に集中するとき、
その影響は目に見えない形で積み重なり、選手や子どもの心の奥に静かに残り続けます。
そして彼らが自分自身の人生を歩むとき、その記憶は「自分もまた役割を果たせばよい」という確信となり、世代を超えて受け継がれていくのです。

第5章 ただ、役割を生きる

性善説と性悪説は、人をどう見るかという問いでした。
しかし、そのどちらを選んでも、私たちは結局「他者を評価し、変えようとする」姿勢から抜け出せません。

ジンテーゼとは、その対立を超えていくことです。
相手に何かを求めるのではなく、ただ自分の役割を生きること。
そこには、相手をコントロールする欲望を手放した静けさがあります。

スポーツの現場でも、親子の関係でも、私たちが本当にできることは限られています。
勝たせることも、才能を開花させることも、最後には本人の旅路です。
私たちに残された唯一の誠実さは、自分に与えられた役割を全うすること

その姿勢は、言葉よりも強く、結果よりも確かに、子どもや選手に伝わります。
「他者を変えようとせず、自分を生きる」
その背中こそが、彼らにとっての最大の学びとなるのです。

だからこそ、結論はシンプルです。
役割を全うする。ただ、それだけでよいのです。

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