アスリートの心は「六道」をめぐる旅
アスリートとして生きるということは、まるで「六道」を行き来するようなものかもしれません。
勝てば歓喜に包まれ、負ければ地獄のような苦しみに落ちる。結果に一喜一憂し、仲間と比べ、葛藤しながら日々を積み重ねていく。
仏教における「六道(ろくどう)」とは、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道の六つの世界を指し、人間が輪廻する境涯を表しています。
しかし、それは決して死後の話ではありません。私たちはこの今の心の中でも、絶えず六つの道を行き来しているのです。
スポーツの世界においても、それは同じです。
地獄のような敗北を味わい、結果に飢え、誰かを蹴落としてでも勝とうとする心が生まれる。
一方で、感謝や喜びを感じながらプレーできる瞬間もある。
つまり、アスリートの心は日々この六道を往来しているのです。
そんな中で、スポーツメンタルコーチとはどんな存在でしょうか?
私たちは光を浴びる立場ではなく、むしろ「陰」に在る存在。
選手の心が地獄に落ちそうなとき、そっと手を差し伸べ、餓鬼のように結果を求め続けるときに、静かにその焦りを見つめる手助けをします。
修羅のような戦いの中にあっても、心を取り戻せるように導く。
それが、スポーツメンタルコーチという「陰の仕事」です。
アスリートを光へと導くために、私たちはあえて影で生きる。
この「六道」という仏教の世界観から、スポーツメンタルコーチの本質を一緒に見つめていきましょう。
六道とは何か ― 人間の心に宿る六つの世界
仏教における「六道(ろくどう)」とは、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道という六つの世界を指します。
これは死後の世界の話として語られることもありますが、本来は「人間の心の状態」を表したものです。つまり、私たちは生きている間に何度でも、この六つの世界を行き来しているのです。
アスリートも例外ではありません。
試合に負けた瞬間に心が沈み、地獄のような絶望を味わうこともあれば、勝利の歓喜に天を仰ぐこともある。
勝負の世界では、この六つの心の状態を日々体験しているといっても過言ではありません。
● 地獄道 ― 自分を責め続ける苦しみ
ミスをした、負けた、裏切られた。
そんな瞬間に生まれる「なぜ自分だけ」「もうダメだ」という自己否定の心。
アスリートが陥りやすい完璧主義や自己攻撃の心理は、まさに地獄道です。
● 餓鬼道 ― 結果に飢える心
「もっと勝ちたい」「もっと評価されたい」
その欲求自体は悪くありませんが、執着になると心が苦しくなります。
SNSで他人の結果を見て落ち込む、練習しても報われない気がする・・・そんな状態が餓鬼道です。
● 畜生道 ― 盲目的に動く心
理性よりも感情が先に動き、「とにかくやらなきゃ」「他人より上にいかなきゃ」と焦る。
考えるより反応で動く状態です。視野が狭くなり、怪我やスランプの原因になることもあります。
● 修羅道 ― 戦い続ける心
スポーツの世界で最も多いのがこの修羅道。
常に競い、誰かに勝つことでしか自分の存在価値を感じられない。
戦うことが悪いわけではありませんが、戦いが目的化してしまうと心は疲弊します。
● 人間道 ― 悩みながらも気づく心
「このままでいいのだろうか」と立ち止まり、自分と向き合う心の状態。
葛藤も多いけれど、ここで初めて人間としての成長が始まります。
● 天道 ― 結果を得た喜び
勝利、称賛、達成感。
これらは一時的に心を満たしますが、やがてその幸福にも終わりが来ます。
だからこそ、次のステージへ向かう準備が必要なのです。
このように六道は、アスリートの心の中でも常に循環しています。
勝利に酔うこともあれば、敗北に沈むこともある。
どんなアスリートも、地獄から天までを行き来しながら成長していくのです。
そして、スポーツメンタルコーチの役割は、この六道の中を迷う選手のそばで、静かに灯をともすこと。
選手がどの世界にいても、その心を否定せずに受け止め、共に歩むこと。
それが、「陰の存在」としての私たちの使命です。
修羅道 ― 勝ち負けにとらわれる心
スポーツの世界に生きるアスリートにとって、もっとも身近で、もっとも苦しみを生むのが「修羅道」です。
修羅道とは、常に戦いの中に生きる心の状態を指します。
仏教では、争い続ける神々の世界・・・勝っても負けても、次の戦いに身を投じずにはいられない状態と説かれています。
まさに現代のスポーツ環境がこの「修羅の世界」と重なります。
勝たなければ存在価値を感じられない。
負けた自分を許せず、次こそはと自分を追い詰める。
一見、向上心のように見えても、心の奥には「負けることへの恐怖」が静かに根を張っているのです。
勝利への執着がもたらす「焦り」
アスリートにとって勝利を目指すのは自然なことです。
しかし、勝ちたい気持ちが強くなりすぎると、やがてその願いが執着へと変わります。
脳科学的に見ると、プレッシャーが強まると「扁桃体」という不安を司る領域が過剰に働き、体が防衛反応を起こします。
その結果、筋肉が硬直し、集中力が乱れ、パフォーマンスが落ちてしまう。
つまり、「勝ちたい」という気持ちが強すぎるときこそ、勝ちから最も遠ざかるのです。
修羅道に陥った心のサイン
修羅道にいるアスリートは、こんな特徴を見せます。
- 他人の成功が気になって仕方ない
- 練習中も「評価されるかどうか」が頭から離れない
- 負けた相手を心から称えられない
- 「楽しさ」よりも「恐れ」で体が動いている
これらは決して弱さではありません。
それほど真剣に競技に向き合っている証でもあります。
ただし、この修羅の心が長く続くと、燃え尽きやスランプ、怪我といった形で体がSOSを出すことがあります。
コーチができることは「静けさを取り戻す空間づくり」
修羅道の中にいる選手に対して、最も大切なのは戦わせないことです。
「頑張れ」「前を向け」と励ますよりも、まずは選手の呼吸を整える時間をつくる。
どんな感情も正しい、という前提で話を聴く。
この「静けさ」を取り戻す時間こそ、修羅の炎を鎮める第一歩です。
スポーツメンタルコーチは、戦場の中で選手が自分を取り戻す場所を提供する存在。
勝ち負けを超えたところにある「本来の自分」を思い出す・・・そのきっかけをつくるのです。
餓鬼道・畜生道 ― 結果への執着と無自覚な競争
修羅道が「戦い続ける心」だとすれば、餓鬼道と畜生道は無意識に支配される心です。
どちらも、アスリートの世界でしばしば見られる「結果への過剰な執着」や「無自覚な比較」の心理状態を表しています。
● 餓鬼道 ― 結果を求めすぎて苦しくなる心
「結果を出さなければ意味がない」
「評価されない自分には価値がない」
このような思考にとらわれると、どれだけ頑張っても心が満たされません。
それはまるで、どれだけ食べても満足できない飢えた心=餓鬼のような状態。
脳科学的にも、過剰な報酬への欲求はドーパミンの依存ループを生みます。
「もっと、もっと」と刺激を求め続けるうちに、
結果や数字が出ない瞬間に、自分を責めたり、焦りが増したりしてしまうのです。
この餓鬼道の恐ろしさは、「頑張っているのに幸せを感じられない」ということ。
本来は好きだった競技が、いつしか義務や重荷になってしまうのです。
● 畜生道 ― 盲目的に動いてしまう心
畜生道は、「思考よりも反応で動く状態」。
感情が優先され、冷静な判断ができなくなる心のことです。
練習中にイライラして感情的に反応してしまう。
負けたあとに相手や環境のせいにしてしまう。
そういった行動の背景には、「考える力」を奪うストレスや焦燥感があります。
心理学的には、ストレスが高まると前頭前野の働きが低下し、
本来ならできるはずの判断力が鈍ることがわかっています。
つまり、畜生道に陥るというのは、
「理性が奪われ、無意識に支配されている状態」なのです。
● スポーツメンタルコーチができること
餓鬼道や畜生道にいる選手に必要なのは、励ましでも気合いでもありません。
まずは、「今の自分が何を感じているのか」に気づく時間です。
「悔しい」「焦っている」「認められたい」
その感情を否定せず、ただ言葉にする。
その瞬間、無意識に反応していた心が少しずつ整理され、理性が戻ってきます。
スポーツメンタルコーチは、選手が自分の心の位置を理解できるように、
鏡のようにそっと寄り添う存在です。
餓鬼や畜生のように苦しむ心も、悪ではありません。
それは「人間らしくあろう」とするエネルギーの表れでもあります。
人間道と天道 ― 苦しみを超えて成長する心
修羅・餓鬼・畜生の世界をくぐり抜けた先にあるのが、「人間道」と「天道」です。
この二つの世界は、アスリートにとって気づきと成長の段階を象徴しています。
● 人間道 ― 苦しみの中に光を見つける
人間道は、苦しみも喜びもすべてを抱えながら、それでも前に進もうとする心の世界です。
スポーツで言えば、敗北や挫折を経て「自分はなぜこの競技をやっているのか」と向き合う瞬間。
それこそが、人間道に生きる姿です。
仏教では「人間に生まれることは難く、得難い」と言われます。
それは、人間の心には迷いと可能性の両方が宿っているから。
スポーツメンタルコーチがアスリートと向き合うとき、
最も大切にしているのは「この人が何に苦しみ、何を乗り越えようとしているのか」を一緒に感じることです。
苦しみを無理にポジティブに変えようとせず、
その中に意味や気づきが生まれるのを待つ。それが本当の支援です。
● 天道 ― 成果と充実の瞬間
努力が報われ、試合で結果が出たとき、アスリートは一時的に天道に立ちます。
歓喜や達成感に包まれる瞬間。
しかし、ここで忘れてはいけないのは、天道もまた永続しないということです。
勝利や成功は、確かに美しい。
けれどもその瞬間も、やがて過ぎ去り、再び新たな挑戦が始まる。
その移ろいの中で、選手が次の目標に進むためには「感謝」と「謙虚さ」が欠かせません。
スポーツメンタルコーチの役割は、
この天道における慢心や空虚感を防ぎ、「次の一歩」を見つけるサポートをすることです。
勝利の裏に隠れた孤独やプレッシャーにも耳を傾ける。
その姿勢こそが、アスリートの人生に寄り添う“陰の存在”としての本質です。
● 六道を超える道 ― スポーツメンタルコーチの在り方
アスリートの心は、地獄から天までの六道を常に行き来しています。
その中で、コーチができることは「どの世界にいても安心していられる場所」を提供すること。
それが、スポーツメンタルコーチの使命です。
六道の教えは、苦しみを否定するためのものではありません。
それぞれの道を人間らしい心の営みとして受け止め、
どんな感情も成長の一部として捉える・・・その理解が、真のメンタルサポートへとつながります。
六道を超えて ― スポーツメンタルコーチは「陰の存在」である理由
アスリートが戦う舞台の裏側には、光があるほど影が生まれます。
スポーツメンタルコーチとは、その影の部分に寄り添い続ける存在です。
華やかな勝利の裏で、心の揺らぎや孤独、葛藤を抱えている選手がどれほど多いかを、私たちは知っています。
● 陰の存在とは「支える」こと
コーチングの本質は「導くこと」ではなく、「支えること」です。
アスリートが地獄のような痛みに沈む時も、修羅のように戦い続ける時も、
コーチはただ静かに寄り添い、呼吸を合わせ、選手が自分自身と再びつながる瞬間を待ちます。
そこに派手な言葉やメソッドはいりません。
むしろ、「何も言わない勇気」こそが必要です。
それは、禅における「無言の教え(不立文字)」にも通じます。
言葉ではなくあり方で示すことこそが、陰としてのコーチの在り方なのです。
● 光を支えるのは、見えない場所にあるもの
試合で輝くアスリートは、まるで太陽のように眩しい存在です。
しかし太陽が昇るためには、夜という時間が必要です。
その夜の時間にあたるのが、スポーツメンタルコーチの役割。
アスリートが苦しみ、涙を流すその時、
コーチは光の届かない場所で、心の火を絶やさないように見守る。
それが陰の仕事であり、最も尊い瞬間でもあります。
● 六道を超える瞬間
アスリートの心は、常に六道を巡りながら生きています。
怒り、執着、迷い、歓喜、希望、絶望。その全てが成長の糧です。
スポーツメンタルコーチの使命は、どの世界にいても「あなたはあなたで大丈夫」と伝えること。
そこには、光も闇も超えた慈しみがあります。
それが、仏教でいう「菩薩の心」に近いものかもしれません。
結果を超え、善悪を超え、ただ一人のアスリートの人生に寄り添う。
その在り方こそが、スポーツメンタルコーチという職業の本質なのです。
● 結びに
陰に徹するというのは、決して地味なことではありません。
むしろそれは、最も深い愛の形です。
結果を誇るのではなく、「人が人として成長する過程」に心を寄せること。
それが、六道を超えて生きるコーチの道。
スポーツメンタルコーチとは、
「勝利の裏で静かに灯りをともす人」でありたいのです。
協会理念
「One athlete,Oen mental coach〜1人のアスリートに、1人のメンタルコーチを〜」